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2018年1月

2018年1月 一覧

雪の事件簿

雪となると、つい「白と赤」に思いがいく。白は言うまでもなく雪の白であり、赤とは血を流した事件のことである。

元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士47人の本所松坂町の吉良上野介邸への討ち入り、安政7年(1860年)3月3日、安政の大獄で強権を発動した老中首座・井伊直弼が桜田門外で水戸浪士らにより暗殺された事件、昭和11年(1936年)、皇道派の青年将校らによる総理大臣官邸など政府要人を襲い高橋是清蔵相、斉藤実内大臣らを殺害、鈴木貫太郎侍従長らを負傷させた「2.26事件」である。いずれも、雪が絡む日に起きた事件で、切なさのカラム雪のせいか、映画、ドラマでたびたび映像化される。

 

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今日の東京の雪は、そのような事件の予兆もなく、単に雪に慣れていない首都圏の交通が大混乱(私も講座を欠席せざるを得なくなった)したというだけだが、何かのきっかけで歴史を振り返ることも、必要だろうと思う今日この頃である。

 

 

 

 

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  2018/01/23  飯田 善則

井の頭公園の水

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井の頭池で「かいぼり」が行われている。池の水を抜いて水質を改善し、外来魚を駆除し在来魚を増やすことを目的としており、今回が3回目だという。「かいぼり」はもともとは農業用のため池を農閑期に水を抜いて天日干しにし、水質を維持管理する手法であったという。私が子供のころは、近くの川で一部を石を積み上げて囲い、水を掻き出して魚を捕まえることを「かいぼり」と称していた(歳がわかるね~)。

最近では「池の水をぜんぶ抜く」なるTV番組まであって結構人気を博し、全国的にもお堀や池の「かいぼり」が盛んに行われ、生態系の改善につながっているという。

 

さて、井の頭池である。井の頭公園といえば、いまや都民の憩いの場所、桜の名所として人気が高いが、江戸時代は命の綱「飲料水」の大動脈・神田上水の源であった。「江戸名所絵図」は井頭池の項で「神田上水の源なり 長さハ西北より東南へ曲がりて三百歩ばかり 巾は百歩あまりあり 地中に清泉湧出するところ七所ありて 旱魃にも涸るる事なし 故に七井の池とも称ふ」としている。

 

徳川家康が入府のころの江戸は、葦葭が生い茂る湿地で水といえば「井の水へ塩さし入り」といわれ、飲料水には適さない。家康が最初に命じたのが町づくりと飲料水の確保であった。菓子司・大久保藤五郎が下命をうけこれにあたった。井の頭池を見出したのは、大久保藤五郎とも三鷹村の百姓・内田六次郎ともいわれるが、内田六次郎が開削を請け負い、罷免されるまで代々神田上水の水元役に任じられた。

 

もっとも、神田上水がいつ江戸に引かれたかは諸説あるようで、定かではない。ただ、入府の天正18年(1590年)には上水を開削していたようで(小石川上水か?)、これにより大久保藤五郎は家康より「主水」の名をたまわり、水が濁ってはならないことから「もんど」ではなく「もんと」と名乗るよう命じらたという。この小石川上水を発展・拡張したのが神田上水とみられている。「江戸名所図会」では井頭池について「大神君(家康)適(たまたま)ここにいたらせ給い池水清冷にして味わいの甘美なる儀 賞揚し給い 御茶の水にくませらる」とあり、また井頭の名については「大将軍家(秀忠か家光)ここに渡御なり給い 深く此池水を愛させられ 大城の御許に引せらるべき旨 欽命ありて御手自 池の傍なる辛夷の樹に御小柄をもて井頭と彫付たまう 是より後 此池の名とす」とし「承応年間(1652年ごろ) 官府より井頭の水道を開かせられ 初て神田に引給う」とある。

 

江戸の飲料水を玉川上水とともに担った神田上水は明治維新後もその役割を担ったが、多摩川の水を新しく引く「淀橋浄水場」の完成により役割を終え明治34年(1901年)廃止された。

「水と安全はタダ」といわれる日本だが、「かいぼり」を行うことにより、生態系の改善はもちろん、古代より治水事業は為政者の重要な事業であり、こと飲料水と農業用水の確保にいかに腐心したかに思いを馳せることも重要であろう。

 

 

 

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  2018/01/15  飯田 善則

明治150年、歴史認識が現代に伝えるもの

                        

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今年は明治維新から150年、幕末の動乱から明治政府が確立するまでの歴史認識が再確認される年となりそうである。

歴史は勝者に都合よく書かれるものである。徳川幕府が260余年の太平の夢を黒船来航によって破られ、国論は開国か攘夷かに二分、「開国やむなし」の徳川幕府と薩長を中心とする「攘夷派」が争った。この闘争は名目上のトップである天皇をどちらが掌握するかの権力闘争でもあった。「攘夷」を主張しながらも長州を嫌い、京都守護職・松平容保(会津藩主)に信頼を寄せた孝明天皇は慶応2年(1866年)、35歳の若さで崩御(毒殺説もあり)し、明治天皇はわずか14歳での即位であった。

15代将軍・徳川慶喜は「尊王攘夷」が勢いを増す中で、慶応3年(1867年)10月14日政権を天皇に返上する「大政奉還」を上表、討幕派の動きに機先を制した。12月9日「王政復古」の大号令が発せられ、徳川の辞官納地が決められた。武家政治が終焉した年ともいえる。だが、薩長を中心とする討幕派は、徳川の影響力を徹底して排除するため、薩摩藩江戸藩邸を軸に挑発行為を繰り返し、江戸市中警護役の庄内藩が薩摩藩邸に討ち入り、これを機に、鳥羽伏見の戦い(1月3日)が勃発、圧倒的多数の幕府軍は「錦の御旗」を掲げた新政府軍に敗北を喫する。1月6日には将軍慶喜は突然、海陽丸で江戸へ帰り、寛永寺に閉居し恭順の意をあらわす。旧幕府軍は総崩れとなり、新政府軍は江戸総攻撃を3月15日と定め、東征軍が進撃する。

当事者能力を欠いた江戸城では、宮家出身の静寛院和宮と薩摩出身の天璋院篤姫が必死の嘆願を行い、3月13・14日の勝海舟、西郷隆盛の会談により江戸城無血開城が決まり、徳川慶喜は死一等を減じ水戸での謹慎、4月11日に水戸に立ち、江戸城は新政府軍に引き渡された。これにより、徳川幕府は滅亡、薩長土肥を中心とする明治政府が樹立したのである。この後、版籍奉還、廃藩置県を経て武家社会は終焉する。行政能力に欠ける薩長藩閥政権は旧幕府の能吏を採用しつつ、攘夷どころか開国路線を強め、列強に追いつくことを国是に、富国強兵を進める。明治10年(1877年)の西南戦争により西郷隆盛が没することにより明治政府は確立する。

もはや崩壊途上にあった徳川幕府が倒れ、新政府ができるのは歴史の必然であったろう。だがこの間、権謀術数うずまき新権力に都合よく書かれた歴史があることは論を待たないであろう。孝明天皇亡き後、朝廷を動かした三条実美、岩倉具視、あくまで討幕を目的に江戸で挑発を繰り広げた攘夷派、徳川を補佐した人物についても「命に係わる処分は行わない」との西郷・勝会談は破棄され、戊辰戦争で会津藩を完膚なきまでに叩き、これらを正義とした薩長政権の行為は150年後の今日修正を加えられてもしかるべきであろう。

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  2018/01/03  飯田 善則
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