明治150年、歴史認識が現代に伝えるもの
今年は明治維新から150年、幕末の動乱から明治政府が確立するまでの歴史認識が再確認される年となりそうである。
歴史は勝者に都合よく書かれるものである。徳川幕府が260余年の太平の夢を黒船来航によって破られ、国論は開国か攘夷かに二分、「開国やむなし」の徳川幕府と薩長を中心とする「攘夷派」が争った。この闘争は名目上のトップである天皇をどちらが掌握するかの権力闘争でもあった。「攘夷」を主張しながらも長州を嫌い、京都守護職・松平容保(会津藩主)に信頼を寄せた孝明天皇は慶応2年(1866年)、35歳の若さで崩御(毒殺説もあり)し、明治天皇はわずか14歳での即位であった。
15代将軍・徳川慶喜は「尊王攘夷」が勢いを増す中で、慶応3年(1867年)10月14日政権を天皇に返上する「大政奉還」を上表、討幕派の動きに機先を制した。12月9日「王政復古」の大号令が発せられ、徳川の辞官納地が決められた。武家政治が終焉した年ともいえる。だが、薩長を中心とする討幕派は、徳川の影響力を徹底して排除するため、薩摩藩江戸藩邸を軸に挑発行為を繰り返し、江戸市中警護役の庄内藩が薩摩藩邸に討ち入り、これを機に、鳥羽伏見の戦い(1月3日)が勃発、圧倒的多数の幕府軍は「錦の御旗」を掲げた新政府軍に敗北を喫する。1月6日には将軍慶喜は突然、海陽丸で江戸へ帰り、寛永寺に閉居し恭順の意をあらわす。旧幕府軍は総崩れとなり、新政府軍は江戸総攻撃を3月15日と定め、東征軍が進撃する。
当事者能力を欠いた江戸城では、宮家出身の静寛院和宮と薩摩出身の天璋院篤姫が必死の嘆願を行い、3月13・14日の勝海舟、西郷隆盛の会談により江戸城無血開城が決まり、徳川慶喜は死一等を減じ水戸での謹慎、4月11日に水戸に立ち、江戸城は新政府軍に引き渡された。これにより、徳川幕府は滅亡、薩長土肥を中心とする明治政府が樹立したのである。この後、版籍奉還、廃藩置県を経て武家社会は終焉する。行政能力に欠ける薩長藩閥政権は旧幕府の能吏を採用しつつ、攘夷どころか開国路線を強め、列強に追いつくことを国是に、富国強兵を進める。明治10年(1877年)の西南戦争により西郷隆盛が没することにより明治政府は確立する。
もはや崩壊途上にあった徳川幕府が倒れ、新政府ができるのは歴史の必然であったろう。だがこの間、権謀術数うずまき新権力に都合よく書かれた歴史があることは論を待たないであろう。孝明天皇亡き後、朝廷を動かした三条実美、岩倉具視、あくまで討幕を目的に江戸で挑発を繰り広げた攘夷派、徳川を補佐した人物についても「命に係わる処分は行わない」との西郷・勝会談は破棄され、戊辰戦争で会津藩を完膚なきまでに叩き、これらを正義とした薩長政権の行為は150年後の今日修正を加えられてもしかるべきであろう。


