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明治政府に抹殺された小栗上野介

明治政府に抹殺された小栗上野介

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 GoToを利用して群馬・薬師温泉に行った。私の主目的は途中にある東善寺(高崎市倉淵町権田)を訪れ、住職の村上泰賢氏の話を聞くことにある。権田村は小栗上野介終焉の地である。小栗は東善寺に仮寓しているところを明治政府軍に取調べもないまま即日斬首され、その事跡まで抹殺された。長らく名誉回復はならなかった。東善寺には小栗上野介と盟友・栗本鋤雲の胸像が木立に囲まれて佇んでいた。

小栗上野介は万延元年(1860年)徳川幕府による遣米使節団の一員(目付)としてアメリカに渡り、不平等条約とりわけ通貨の交換比率見直し交渉、各地の視察を行い、ワシントンの海軍工廠視察では製鉄・金属加工技術の日本との差に驚き、帰国後、フランスの協力により横須賀造船所(製鉄所)を建造した。このほか、仏語伝習所、資本力増強のための株式会社設立(兵庫商

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会)など政府に引き継がれ、日本の基礎ともいうべき路線を敷いた。遣米使節団を運んだのは「ボー・ハタン号」で、その護衛船が「咸臨丸」だが、教科書では単に米国に行っただけの「咸臨丸」は載せても、幕府の正使を載せた「ボー・ハタン号」とその事跡は無視である。「咸臨丸」は言うまでもなく勝海舟が乗った船である。「歴史は勝者が作る」の典型である。この事例をみれば、明治政府がどのくらい歴史を捏造し、それが現代まで訂正もされずにきているか分かったものではない。小栗と勝は大政奉還後に徹底抗戦派と恭順派にわかれ、徳川慶喜により恭順と定まり小栗は知行所の権田村への土着願を出し、東善寺に仮寓していた。そこへ新政府軍が「陣屋を厳重に構え、砲台を築き」として捕縛され、家臣4人とともに斬首された。

東善寺の住職・村上泰賢氏は小栗氏の事跡を詳細に調査、正当な評価をするため情報発信している小栗上野介研究の第一人者である。遣米使節がアメリカで大歓迎を受けた当時の新聞記事まで収集している。会うなり私は「陣屋を造る観音山はどの辺ですか」と聞くと、「陣屋ではありません家作です」とピシャリ云われた。「大義名分のない戦には加わらない」として徹底抗戦派の誘いを拒否、土着して平穏に暮らす道を選んだことは十分に推察できる。だが、その才覚を恐れた新政府軍は、小栗の戦う意思がないとの弁明にもかかわらず、取調べもないまま斬首したのである。移住から64日目のことである。小栗の遺品は新政府軍がほとんどを没収していったという。東善寺の小さな蔵には斬首のために乗せられた駕籠とともにわずかな遺品が展示されているにすぎない。

鳥羽伏見の戦いの直後の小栗の徹底抗戦策は「新政府軍が箱根に入ったところを幕府軍が迎撃し、榎本武揚率いる海軍が駿河湾で後続を艦砲射撃し分断し挟撃する」というもので、後に新政府軍の大村益次郎は「その策を採用していたら、今頃、我々の首は胴から離れていただろう」と述壊している。これだけの人物を野に放っておくことは新政府軍としては脅威であったであろう。

村上住職の話は、ほぼ小栗の事跡と遣米使節の業績を丹念に講義するものであったが、その心底には、徳川幕府、徳川慶喜の小栗に対する忸怩たる思い、明治政府の非道な振る舞い、とりわけ小栗の業績を歴史から抹殺するような扱いに怒りを覚えているのであろう。

財政難を理由に横須賀造船所の建設を渋った幕閣に小栗は「幕府の運命に限りはあるとも、日本の運命には限りがない。私は幕臣である以上、幕府に尽くすのが筋だが、結局は日本のためである。同じ売家でも土蔵付き売据えのほうがよい」と云って計画を進めた。国の未来をも見据えた人物である。横須賀造船所は明治政府の富国強兵策の中核をなし、明治38年(1905年)バルチック艦隊を日本海海戦でやぶって勝利した連合艦隊司令長官・東郷平八郎は小栗の子孫を招き「日本海軍が勝利できたのは小栗さんが造船所を造ってくれたおかげ」と感謝し、ようやく小栗上野介の名誉が一部ながら回復したのである。

だが、まだ小栗上野介の名を知る者は少ない。村上住職もまだまだ情報発信しなければならないだろう。できれば、少しはお手伝いできればと考えている。

  2020/11/18  飯田 善則
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