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2019年04月

2019年04月 一覧

新壱萬円札の顔は渋沢栄一

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▼今日は雪。「季節ははずれの雪に、桜」とくれば、清水邦夫・作「タンゴ冬の終わりに」である。私が観たのは蜷川幸雄演出、平幹二朗、名取裕子主演の初演舞台。そのラストシーンが桜の季節に雪と桜がひらひらと舞う、何とも幻想的なシーンであった。だが、今日の「雪と桜」は、まさに「桜隠しの雪」で、いかにも季節はずれ。桜が隠れ、雪景色。

▼新日銀券の顔に、壱萬円札・渋沢栄一、五千円札・津田梅子、千円札・北里柴三郎に決まった。2024年から使用するという。渋沢栄一は「近代日本資本主義の父」と言われる。だが、日本史でも詳しく取り上げられないため、「この人誰」という若者も多いのではないか? 幕末に武蔵国・血洗島(現・埼玉県深谷市)の養蚕、藍玉を生産する富農の家に生まれ、若き日は尊王攘夷思想に傾注し、高崎城の武器を奪い横浜の外国人居留地を焼き討ちにするなどの計画を立てたと伝わる(実行はせず)。尊王攘夷が叫ばれるなか、京都行きを計画した栄一たちは、百姓身分では旅が困難なため、江戸遊学で知己を得た一橋家の用人・平岡円四郎(慶喜の片腕といわれる)に頼み、平岡の家臣として先触れを出してもらい帯刀して無事京都に上ったのである。ここで平岡から「一足飛びの過激な構想では、事の成るものではない。それよりもこの際、節を屈して一橋家に仕え、草履とりから始める決心で、追々と政治上の実権のある人に意見を進言し、之を行わしむるようにした方が賢い道だ」(実験論語処世談)と諭され、一橋家の家臣となったのである。

一橋家では農兵の採用係などをした後、勘定組頭にまでのぼった。慶喜が将軍時にパリ万博が行われた際には、慶喜の名代・異母弟・昭武(のち水戸徳川家11代藩主)の随行員に抜擢されパリにわたる。パリ万博開催中に日本では時代が変わり徳川幕府は崩壊、明治政府が発足する。

帰国してみると「洋行前とは一変しており…朝廷にたって時めいている人々には知己旧識が全然ない」(処世談)ことから、慶喜のいる静岡に行く。多くの幕臣が商工業などを勧められ苦労しているのをみて、資本を集めて「商法会所」を設立、商品を抵当として貸付や肥料の買付け農民に売ったりの事業を起こしている。

さらに、新政府の要請により、大蔵省に出仕する。人材不足の新政府にとってはうってつけの人物であったろうが、3年ほどで職を辞し、民間で「実業の振興を計ろうと決心」(処世談)したとある。ここから、「日本資本主義の父」と言われる、企業を次々と設立していくのである。第一国立銀行をはじめ各地の銀行、製紙、造船、瓦斯、保険、電気など関係した企業は500社に達し、今なお大企業として名を残している。

新壱萬円札の顔としてはふさわしい。だが、時代は電子マネー時代、泉下で深沢翁は日本の行く末をどう見ているのであろうか⁇

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  2019/04/10  飯田 善則

新元号「令和」

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新年号が「令和」に決まった。年号は皇極女帝四年(645年)に「大化」と制定してから248番目の年号だという。前回「平成」の際は、天皇崩御による改元だったため、静かに「平成」の年号を受け入れたように思う。

これに対し、今回の改元は、特例法による天皇の退位、践祚(せんそ)によるもので、かつ国書・万葉集からの引用であったためマスコミは、選者はだれか、どのように決められたか、と大騒ぎである。この辺の事情はおいおい明らかにされてくるであろうが、私が興味を持ったのは、明治以前の改元の在り方である。明治以降の年号は「一世一元」であるが、それ以前は、頻繁に改元が行われた。明治以前の改元は、天皇の代替りである践祚はもちろん、祥瑞(よい兆し)、天災・戦乱などの災異、干支による甲子、辛酉にあたる年も変事が起きるということで改元されたという。江戸時代の年号などは、天皇というより将軍に属するものとの認識であった。寛永といえば家光、元禄といえば綱吉、享保といえば吉宗といった具合である。この時代は、朝廷の案(勘文)を幕府に事前にみせ幕府の儒者(林家)が意見を加えたという。

織田信長は足利義昭を追い落とし実質的に足利幕府を終わらせた「十七箇条意見書」の中で、「元亀の年号は縁起が悪いので朝廷に働きかけて改元をお願いしているのに、義昭はわずかの金をケチって何もしていない」と謗っている。義昭を追放してからは、わずか七日で「天文」と改元されている。

もともと改元は①天皇が発議し②その勅を受けて大臣が文章博士・式部大輔の学者に文字案(好字)を勘申(上申)させる③それを公卿が陣議(現在の閣僚会議)において難陳(論難・陳弁)を繰り返し二、三案程度に絞って天皇に上奏④天皇は最善案を選ぶよう命じ⑤再び陣議を開き最終案を上奏⑥天皇が勅定し⑦改元詔書として太政官から全国へ通達―という手順であったとのことである。(所功氏などの論文による)

現在は、総理大臣が考案者を若干名選び、新元号案を提出してもらい、それを有識者による「元号に関する懇談会」で意見を求め、総理大臣が衆参の正副議長に意見を求め、閣僚会議において議論して決定、陛下の御名・御璽を得て官報に掲載、公布となる。

これだと、難陳(論難=誤り、欠点などを論じること、陳弁=事情や理由を述べ弁解すること)をする場は、有識者懇談会、閣僚会議ということになる。

「令和」は初めて国書(万葉集)から採用された年号ということで、「初春の令月(よい月)にして、気淑く風和(やわら)ぎ」という穏やかな年月が流れることを祈っての元号であろう。

元号の願のごとくであってほしいものである。

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  2019/04/01  飯田 善則
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