神楽坂の変貌
夕暮れ時、毘沙門天で知られる善国寺の前に降り立った。まだ太陽の明かりで十分な時刻だが、神楽坂の道筋は明かりが灯され、モダンな店が軒を連ねている。肉まんで有名な「五十番」はしもた屋からモダンなビルに入り煌々と明かりをつけ、一瞬、どこか違う場所に紛れ込んだ感覚に襲われた。
神楽坂は40年近く前、夜な夜な出没した懐かしい場所である。某協会の役員、職員と「竹泉」なる料亭(今はない)で謀議を巡らせた場所であることを思い出した。
今日の会合場所は善国寺の対面、五十番のわき道を入ったところにある。「本多通り」と案内があり、いまだに江戸期の三河西端(現・愛知県碧南市)の領主・忠相系本多家の屋敷があったところである。もともと、牛込、市谷地区は江戸時代の町名が数多く残っているところである。神楽坂は現在1丁目から6丁目まであるが、江戸時代は神楽坂という町名はない。坂の名前を里俗・神楽坂と呼びならわしただけで、道路沿いには武家地が並んでいた。江戸時代は武家地に町名はなく、町人地のみに町名があった。
江戸時代・安政期の古地図の神楽坂下から善国寺までの道路沿いを見ると、牡丹屋敷、市谷田町四丁目代地、岩戸町一丁目のみが町人地(灰色で描かれている)のほかは白色で描かれた武家地と赤の寺社地である。「本多通り」の名前が残るのは、古地図上の本多対馬守忠寛(3,401坪)の屋敷があったからである。本多氏は9,000石の大身旗本であったが、忠寛の時代に加増され1万500石となり大名に列せられている。本多屋敷でいえば、現在の新宿・ゴールデン街も本多家の下屋敷(6,220坪)であった。ともに、今や外国人観光客の人気スポットというのも何かの縁かもしれない。本多屋敷の北側には天下のご意見番として知られる大久保彦左衛門(旗本・2,500石)の代々の屋敷もあった。
神楽坂の由来は「穴八幡旅所になる以前から祭礼の際、神楽を行ったからとも、築土明神を牛込御門内から現在地に移す際、神輿が重く坂を登れなかったため、供物を備え神楽を奉納したところ坂を上り切った」(町方書上)とも言い伝えられているという。坂は「高さ三丈七尺、長さ壱町斗(ばかり)、巾上の方六間、下の方四間半」(町方書上)とあるから、高低差は約11.2m、長さ約110mだから勾配はかなりきつい。景気付けでもしなければ登れなかったのであろう。
明治新政府になって、武家地は上地(召上げ)され、地券を発行するにあたり、町名を付ける必要から「里俗の古名をもって」町名を付けるよう触書があり、これら地域は、明治5年「牛込神楽坂1から3丁目」の町名がつけられた。その後、「牛込」がとれ、4から6丁目が加えられたのは戦後である。
神楽坂といえば「花街」が思い浮かぶ。善国寺が麹町から移ってきた寛政期に周辺に茶屋ができ岡場所として賑わったのを引き継いで花街を形成したという。ピーク大正時代から昭和初期には芸者が700人ほどいたという。
会合が終わったのは9時過ぎだが、外は依然として明かりが煌々と輝き、人の流れも止まらない。来週は「ほおずき市」との看板を横目に神楽坂を後にした。



