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2019年04月1日

2019年04月1日 一覧

新元号「令和」

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新年号が「令和」に決まった。年号は皇極女帝四年(645年)に「大化」と制定してから248番目の年号だという。前回「平成」の際は、天皇崩御による改元だったため、静かに「平成」の年号を受け入れたように思う。

これに対し、今回の改元は、特例法による天皇の退位、践祚(せんそ)によるもので、かつ国書・万葉集からの引用であったためマスコミは、選者はだれか、どのように決められたか、と大騒ぎである。この辺の事情はおいおい明らかにされてくるであろうが、私が興味を持ったのは、明治以前の改元の在り方である。明治以降の年号は「一世一元」であるが、それ以前は、頻繁に改元が行われた。明治以前の改元は、天皇の代替りである践祚はもちろん、祥瑞(よい兆し)、天災・戦乱などの災異、干支による甲子、辛酉にあたる年も変事が起きるということで改元されたという。江戸時代の年号などは、天皇というより将軍に属するものとの認識であった。寛永といえば家光、元禄といえば綱吉、享保といえば吉宗といった具合である。この時代は、朝廷の案(勘文)を幕府に事前にみせ幕府の儒者(林家)が意見を加えたという。

織田信長は足利義昭を追い落とし実質的に足利幕府を終わらせた「十七箇条意見書」の中で、「元亀の年号は縁起が悪いので朝廷に働きかけて改元をお願いしているのに、義昭はわずかの金をケチって何もしていない」と謗っている。義昭を追放してからは、わずか七日で「天文」と改元されている。

もともと改元は①天皇が発議し②その勅を受けて大臣が文章博士・式部大輔の学者に文字案(好字)を勘申(上申)させる③それを公卿が陣議(現在の閣僚会議)において難陳(論難・陳弁)を繰り返し二、三案程度に絞って天皇に上奏④天皇は最善案を選ぶよう命じ⑤再び陣議を開き最終案を上奏⑥天皇が勅定し⑦改元詔書として太政官から全国へ通達―という手順であったとのことである。(所功氏などの論文による)

現在は、総理大臣が考案者を若干名選び、新元号案を提出してもらい、それを有識者による「元号に関する懇談会」で意見を求め、総理大臣が衆参の正副議長に意見を求め、閣僚会議において議論して決定、陛下の御名・御璽を得て官報に掲載、公布となる。

これだと、難陳(論難=誤り、欠点などを論じること、陳弁=事情や理由を述べ弁解すること)をする場は、有識者懇談会、閣僚会議ということになる。

「令和」は初めて国書(万葉集)から採用された年号ということで、「初春の令月(よい月)にして、気淑く風和(やわら)ぎ」という穏やかな年月が流れることを祈っての元号であろう。

元号の願のごとくであってほしいものである。

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  2019/04/01  飯田 善則
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