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2018年1月15日

2018年1月15日 一覧

井の頭公園の水

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井の頭池で「かいぼり」が行われている。池の水を抜いて水質を改善し、外来魚を駆除し在来魚を増やすことを目的としており、今回が3回目だという。「かいぼり」はもともとは農業用のため池を農閑期に水を抜いて天日干しにし、水質を維持管理する手法であったという。私が子供のころは、近くの川で一部を石を積み上げて囲い、水を掻き出して魚を捕まえることを「かいぼり」と称していた(歳がわかるね~)。

最近では「池の水をぜんぶ抜く」なるTV番組まであって結構人気を博し、全国的にもお堀や池の「かいぼり」が盛んに行われ、生態系の改善につながっているという。

 

さて、井の頭池である。井の頭公園といえば、いまや都民の憩いの場所、桜の名所として人気が高いが、江戸時代は命の綱「飲料水」の大動脈・神田上水の源であった。「江戸名所絵図」は井頭池の項で「神田上水の源なり 長さハ西北より東南へ曲がりて三百歩ばかり 巾は百歩あまりあり 地中に清泉湧出するところ七所ありて 旱魃にも涸るる事なし 故に七井の池とも称ふ」としている。

 

徳川家康が入府のころの江戸は、葦葭が生い茂る湿地で水といえば「井の水へ塩さし入り」といわれ、飲料水には適さない。家康が最初に命じたのが町づくりと飲料水の確保であった。菓子司・大久保藤五郎が下命をうけこれにあたった。井の頭池を見出したのは、大久保藤五郎とも三鷹村の百姓・内田六次郎ともいわれるが、内田六次郎が開削を請け負い、罷免されるまで代々神田上水の水元役に任じられた。

 

もっとも、神田上水がいつ江戸に引かれたかは諸説あるようで、定かではない。ただ、入府の天正18年(1590年)には上水を開削していたようで(小石川上水か?)、これにより大久保藤五郎は家康より「主水」の名をたまわり、水が濁ってはならないことから「もんど」ではなく「もんと」と名乗るよう命じらたという。この小石川上水を発展・拡張したのが神田上水とみられている。「江戸名所図会」では井頭池について「大神君(家康)適(たまたま)ここにいたらせ給い池水清冷にして味わいの甘美なる儀 賞揚し給い 御茶の水にくませらる」とあり、また井頭の名については「大将軍家(秀忠か家光)ここに渡御なり給い 深く此池水を愛させられ 大城の御許に引せらるべき旨 欽命ありて御手自 池の傍なる辛夷の樹に御小柄をもて井頭と彫付たまう 是より後 此池の名とす」とし「承応年間(1652年ごろ) 官府より井頭の水道を開かせられ 初て神田に引給う」とある。

 

江戸の飲料水を玉川上水とともに担った神田上水は明治維新後もその役割を担ったが、多摩川の水を新しく引く「淀橋浄水場」の完成により役割を終え明治34年(1901年)廃止された。

「水と安全はタダ」といわれる日本だが、「かいぼり」を行うことにより、生態系の改善はもちろん、古代より治水事業は為政者の重要な事業であり、こと飲料水と農業用水の確保にいかに腐心したかに思いを馳せることも重要であろう。

 

 

 

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  2018/01/15  飯田 善則
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