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シドッチと新井白石

シドッチと新井白石

     

切支丹屋敷.jpg
切支丹屋敷.


 文京区茗荷谷の「切支丹屋敷」跡のマンション建設現場(ザ・パークハウス小日向、31戸)で2年前に3体の人骨が出土。
うち1体は国立科学博物館によるDNA鑑定や、人類学的分析で江戸時代のイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチの可能性が高いことがわかり、同博物館で出土した骨などを元に顔を復元した。シドッチはキリシタン禁制下の日本に潜入した最後の宣教師とされる。

 切支丹屋敷は正保3年(1646年)に、大目付兼宗門改役であった井上政重の下屋敷(約7,700坪)内に牢や番所を建てて設けられた。
この屋敷には、島原の乱後の寛永20年(1643年)に筑前国に漂着し、江戸に送られて伝馬町の牢に入れられたイタリアの宣教師ジョゼフ・カウロら10人が収容された。カウロはのちに改宗させられ、岡本三左衛門(〜1685年)と名乗る。

 シドッチは宝永5年(1708年)、屋久島に上陸したところを捕えられ、長崎を経て江戸に送られ切支丹屋敷に収容された。
シドッチは4年間、フィリピンのマニラで、日本人漂流者などから、日本語、日本の風習を学び、和服、大小を脇に差して、屋久島へと上陸したと伝えられる。

 シドッチを有名にしたのは、時の将軍・徳川家宣の特命により新井白石がシドッチを4回にわたり尋問をしたことによる。
儒者である新井白石はキリスト教は認めなかったものの、海外事情、地理、風俗、天文といった分野でのシドッチの知識に驚嘆し、この尋問をもとに「西洋紀聞」や世界地理の本「采覧異言」(さいらんいげん)を著わし、後世に大きな影響を与えた。
白石もシドッチに感銘を受けたが、収容されたまま47歳で牢獄で死去する。別の2体の人骨はシドッチの世話をし、彼の人柄によりキリスト教に入信したとされる長助、はるの老夫妻の可能性が高いとされる。

 切支丹屋敷はその後、入牢者もなく徐々に縮小され享保10年(1725) の大火で焼失すると、再建されることなく寛政4年(1792)に廃止された。
この頃、敷地も2935坪程度に縮小されたという。周辺は武家地で近くには「切支丹坂」があり、江戸時代の「諸向地所取調書」には拝領屋敷の地名として切支丹坂、切支丹坂上といった記述がある。
もっとも、江戸時代の切絵図には、現在の「庚申坂」を「キリシタンサカ」と表記しているものもあり、どちらをさしているかは分からない。

 ちなみに三菱地所レジデンスの「ザ・パークハウス小日向」の敷地面積は1,635.94㎡(500坪弱)で、パンフレットに切支丹屋敷跡地の記述はない。

  2016/11/12  飯田 善則
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